文化大革命が悪行かどうかの議論はおいといて、文化大革命以前の文化財は中国にとって非常に価値の高いものと思われる。現在の所有者は善意の第三者だろうが、一部の金持ちが自己満足で所有する代物ではないと思う。
法律論では支払うのが筋ですが、この件に関しては超法規的措置を適応してもいい事案だと思う。個人的な考えではフランス・イギリス両政府が落札額で買い取り、中国政府に返還するのがよいのではないかと思います。本来香港と一緒に返還されるべきものと思う。
教科書で習ったことかもしれないが、アヘン戦争をおさらいしていこう。
時は18世紀大英帝国。当時も今もイギリスといえばティータイム。ま、当時は富裕層むけだったわけですが。イギリスは、現在の中国である清から、お茶を輸入。銀を輸出するとこで貿易を行っていた。ところがイギリスの消費が激しく、輸入超過状態になり、銀の輸出を制限する政策を取り出す。
イギリスとしてはもっとお茶を輸入したい。でも代金である銀の輸出が制限される。しかも、当時貿易は広州だけに制限されており、貿易拡大の交渉をしていたが、方や当時列強トップの大英帝国。方や中華思想の総本山。互いに相手を見下しているもんだから、まともな交渉などできるはずもなく、イギリスとしては面白くない状況。
そこでイギリスは当時植民地だったインドでアヘンを栽培し、清への密輸入を行うとこで輸入超過を相殺する三角貿易を始めます。アヘンはご存知麻薬の一つで、清でも当然規制されていたが、密輸入は止まらず、みるみるアヘン漬けになっていく。やがて代金がお茶だけでは足りず、銀まで決済に使われて行く。
次第に清ではインフレ状態になっていき、さすがに皇帝様もこれはやばい。ってんで、林則徐という人物を特務大臣としてアヘンの取り締まりに当たらせる。彼は相当な働き者で、どんな賄賂も通じず、アヘンを没収した上、誓約書を書かせ、誓約書を書かない船は貿易を認めない徹底ぶり。この時没収したアヘンは1400トンに上るといわれている。
誓約書を出し貿易を続行しようとする商船もいたが、イギリス軍部がその行動を押さえ、無条件で貿易禁止の解除をするよう要求を出す。林則徐はこの要求を突っぱねます。彼はほんとにまじめだったんだねぇ。
こうなるとイギリスはこりゃもう戦争しかないな。やっちまおうぜぇ。てことになる。この成り行きをみてわかるが、
「麻薬を密輸をしてたのは我々なのに、逆ギレやん」
って意見がイギリス国内からもあがる。しかし議会では僅差で可決されてしまう。イギリス人の中にはいまだに「恥ずべき戦争」と思っている方もいるようです。
さぁ、イギリス艦隊のお出ましです。艦隊は広州ではなく、天津に向かいます。北京の目と鼻の先である天津に現れ、びっくりしたのか、清政府は林則徐を罷免して軟化させようとする。林則徐君無念。
そしてイギリスの出した要求は以下のもの。
・香港をよこせ
・没収した代金もよこせ
ってもの、まるでジャイアンです。清はこれを拒否しますが、火力に勝るイギリス軍が勝利します。しかし広州に上陸したイギリス軍が、普通の民衆に全滅寸前まで追い詰められるなど善戦したようです。
1842年南京条約に調印し戦争は終結。ここまでが第一次アヘン戦争と言われるもので、この後、第二次アヘン戦争と言われるアロー戦争へと繋がっていく。
ちなみにこの時の調印内容は以下の通り。
・賠償金払え。
・香港をよこせ
・広州のほか、厦門、福州、寧波、上海を開港せよ
さらに追加条項として
・治外法権を認めろ
・自主関税を放棄しろ
・イギリスをVIP待遇とせよ
さらに、アメリカ・フランスとも似たような不平等条約を結ぶこととなる。泣きっ面に蜂どこの騒ぎではない清。
しかし、そこは大国清。こんな条約、まともに守るつもりはさらさらない。港はやむなく開放したが、内地に入ることは認めない。清国内では当然反英感情が高まり、イギリスが期待したほどの利益は上がらなかった。だんだんイギリスがイラつき始めたころに、ちょうどある事件が起こる。
1856年イギリス船籍のアロー号を清政府が海賊容疑として逮捕してしまう。イギリスは治外法権があるので不当だと文句を言う。さらに逮捕時、イギリス国旗を引きずりおろす行為があったため、証拠隠滅やら侮辱やらと紛糾。
その後、アロー号は船舶登録期限が過ぎており、清政府の逮捕は合法だったと判明するが、これがきっかけで小競り合いに発展する。ちょうどそのころ、フランス人宣教師が逮捕され殺された事件があり、フランスも怒り始める。
じゃあ一緒にやっちまおうぜ。って英仏連合軍が再び天津へ。
イギリスだけでも負けたのに、フランスが加わったとあってはどうしようもない。あっさり天津を占領され。天津条約を結ばされます。内容は以下の通り。
・賠償金払え
・キリスト教の布教を認めろ
・内地河川に入れるようにしろ
・大使を北京に置かせろ
清は、わかった皇帝様にお伺いを立てるので来年批准に来てくれ。という。
1859年批准にために、再び英仏連合艦隊が天津に現れる。
しかし、お出迎えもない。あれ?
そのまま進むと、川には障害物が。これじゃ進めないので、障害物を取り除く作業をしだす。するとそこへ大砲がどーん!
まるでコントのような出来事ですが、事実である。大打撃を受けた連合軍は一旦上海へ後退。もうマジギレです。こんどは1万7千の大艦隊で再び天津を攻略。再度交渉へ当たるが、なんと交渉の使節団を拷問の上殺してしまう。火に油を注ぎまくりの清。
こうなると連合軍の暴走は抑えらず、ついに北京まで北上。それはもうすさまじい破壊っぷり、略奪っぷりを見せます。この時報復の一つとして破壊されたのが、北京にある円明園という庭園で、ここの噴水時計に設置されていたのが、問題の十二支像である。
いやー。長かったがやっと繋がりましたね。その後、ロシアの仲裁でアロー戦争は終結します。
どうでしょうか。戦争はそれぞれの国家の正義と正義のぶつかり合いなので、どちらが正しい。悪い。という話はしても仕方ないと思います。しかし、この十二支像に関してだけ言えば、フランスにあるのが正しいですか?中国にあるのが正しいですか?
個人的には良識あるフランス人の皆様が寛大な措置をとることを望みますね。
チベット問題と関連付けるのは筋違いです。
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